「心に残る出会い」部門 大賞 マ・シェリ賞

帰郷

くりこ(岩手県盛岡市)

 母校を訪れるのは、二十年ぶりだった。クリーム色のくすんだ校舎と、眩しいくらい真っ白い仮設住宅。細い駐車場のラインが、過去と現在の境界線をぼんやりと引いている。
 校庭に残されたわずかなスペースでは、子ども達が元気に遊んでいた。ベンチに座っている大人は、目を細めながら眺めている。それは、町民運動会を思い出させる和やかな雰囲気だった。
 両親が入居する部屋の前で、地域の人達何人かに出会った。小さい頃かわいがってくれたおばちゃん達だ。
「あら、来てだの。ノンコちゃんか。」
「ちがうよ、クンコだよ。」
「あや、クンちゃんか。」
 私は笑ってしまった。昔から、どこに行っても必ず先に姉の名前で呼ばれる。お決まりのやりとりだ。懐かしい笑い声に包まれて、私は二十年前の"クンちゃん"に戻る。後ろには、のどかな田園風景と民家がかげろうのように浮かび上がってくる。
 私が育った町は、津波によって一瞬で幻となってしまった。でも、その時おばちゃん達と一緒に笑った私は、確かにあの頃の美しいふるさとに立っていた。
 ひとつ坂を下れば、一面に広がる灰色のガレキの海。小さな山の上に建てられた仮設住宅は、まさに
"いのち"が集まる孤島だった。
 無造作に貼られた紙に、誰が何号室か書いてある。今までと同じように、地域の人同士で助け合って生きているのだ。
"少し形が変わっただけ。思い出も未来も、ここにあるから。"
 静かに見守っているクリーム色の校舎が、どこかまだ揺れている私の心にそう言ってくれた。

講評 震災をテーマにしながらも、穏やかとも言える日常の描写が続き、ほんとうは揺れている筆者の心は、実際に被災したおばちゃんたちの笑顔に癒やされてゆきます。さりげない表現のなかに心象風景が立ち上がってくる、巧みな作品と評価され、大賞に決まりました。(澤口たまみ)

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「心に残る出会い」部門 たまみ賞

場所はホームセンター、値段は1,000円

清水 萌(東京都町田市)

 はっきりいって、最初のインパクトなんてなかったし、覚えていない。小さくて、うちに連れて帰るまでの新聞紙をつめた袋の中で、よちよち動くのを見て、かわいいなーって思ったってくらい。
 親戚のおじさんに買ってもらった。
 ホームセンターの中のペットショップで、大きな水槽に30匹くらい、まとめて入れられていたゼニガメ。
 店員のおねえさんがその中から一匹、適当にすくい取ってくれたやつを買った。
 それから気づいたら、20年くらい一緒にいた。
 実を言うと、最初っからそんな大切にしてやろうとか、そんな覚悟があったわけではなくて、そういえば名前なんて20年間ずーっと「かめ」。
 でも、気づいたら、こうしたら喜ぶとか、なにが好きとか、意外と速く動くとか、今あくびしたとか、なに騒いでんのとか、あれ、なんか頭乾燥しすぎて白っぽくなってるとか、見てる。知らないうちに見ちゃってる。
 ああ、好きって、こういうことなんだとか、お父さんお母さんはこういう気持ちで私のこと見ているんだとか、なんとなくだけどかめと過ごすうちにわかった気がする。
 かめと会ってから、好きって、見ちゃう、というか、気にしちゃうことなんだって実感した。
 嫌なことあった日は帰り道に、かめのこと考える。かめの水槽の前に行ったら、やさしい気持ちになれるから。
 だから、これからもずっと一緒にいたい。
 かめがあと何十年生きるのかわからないけど。私もあと何十年生きるのかわからないけど。
 今までの20年と、これからの時間が、あのときのたった一瞬の出会いを、より心に残るものにしていく。1000円の出会いが、これからもっと大切なものになっていく。
 出会いは、どこにでもあるホームセンターだった。値段も安かった。
 でも一緒に過ごすなかで、そんな出会いが、どんどん心に残るものになっていった。
 だから、胸をはって言いたい。
 私の心に残る出会いは1000円でした、と。

講評 好きって、見ちゃう、というか、気にしちゃうことなんだ……との一文が、素朴な言葉ながら真実を表していて、そうなんだよね、と肯かされました。話し言葉もそのままの文体は、エッセイとしてはやや異色ですが。(澤口たまみ)

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「心に残る出会い」部門 詩歌の森賞

熱カンで一杯

桜木 紗綾(千葉県習志野市)

 二十年程前、有楽町の会社でアルバイトをしていた時のこと。近くに緑豊かな公園があり、昼休みは毎日そこでのんびりと過ごした。
 冬のある日、いつものベンチで景色を眺めていると、隣にいた男の人に声をかけられた。
「お姉ちゃん、昨日もここにいたよね」
振り向くと、ぼさぼさ頭に無精ひげ、よれよれの茶色い上着を着た男が私を見ていた。サンダルから覗く真っ黒な足。何だか、怖い。
「その前の日も来てたよね」「…はい」
 ヤバイかも。私は立ち去ろうと手荷物を片づけた。すると男の人が、
「待ってよ。おじさんは悪い人じゃないよ」
 と言って、上着のポケットから缶コーヒーを二本取り出して一本を私に差し出した。
「まあ一杯やろうや、熱缶でさ」
 おじさんは笑いながらコーヒーを一口飲むと、おもむろに自分の生い立ちを話し始めた。
「俺の生まれたのは、田舎の農村でね…」
 地元の高校を卒業して村を出、一生懸命働いた。ところが仲間がお金を持って逃走。その後、自分は病気をして、仕事を失い…。
 何でそんな話を私にするんだろうと思っていると、おじさんがふとこっちを向いた。
「いいか、早まるなよ。まだ若いんだから」
 何? 一瞬戸惑ったが、どうやら毎日公園でぼんやりしている私を見て、相当思い詰めた人だと思ったらしい。とんだカン違いだ。思わず私が苦笑すると、「やっと笑った」と言って、おじさんも笑った。
「生きていれば、絶対いいことがあるんだ」
 しみじみとした言葉に、私は慌ててコーヒーを飲んだ。冷めているのに、胸の辺りが温かい。おじさんは、わざわざこれを用意して、毎日声をかけるチャンスを待っていたのだろうか。自分も辛いのに、見ず知らずの人を慰めるおじさんの優しさが身にしみた。時はバブル全盛期。華やいだ世の中を私もそれなりに満喫したが、全て弾けて消えた。でも、おじさんの温もりだけは、今でも冷めていない。

講評 味わい深く整った文章でした。不器用で早とちりでやさしくて、それ故に不遇な「おじさん」。男から見ると実にカッコ良い人ですが…。若くしてその温かさを感じ取った作者も、きっとすばらしい女性に違いありません。(豊泉 豪)

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「心に残る出会い」部門 佳作

カンボジアの笑顔

佐藤 明日香(静岡県三島市)

 淡い橙色のシャツを着ているカンボジアの観光ガイドさん。その一人との出会いが、とても心に残っている。
 カンボジア滞在3日目のその日、現地の旅行会社が主催する格安の遺跡巡りツアーに参加することにした。待ち合わせ場所を勘違いしていたガイドさんとは1時間遅れで合流し、私達夫婦とガイドさんの3人でのツアーは始まった。
 「ワータシノサーアビスハ、ドーオデスカ?」ツアーの間、独特のイントネーションで何度も尋ねられた。敬語まで完璧に使いこなし、所作や心遣いに至るまで非の打ち所のなかった前日までのガイドさんに比べると、彼はどこか危なっかしかった。一生懸命説明してくれるのだが、彼の日本語は半分くらいしか聞き取れず、むしろ「コレハ日本語デナントイイマスカ」を連発する彼のための日本語教室のようだった。しかし、彼の人懐こい性格もあり、打ち解けた雰囲気の中でツアーは進んでいった。
 カンボジアの尋常でない暑さに耐えかねて、木陰に3人で腰を下ろすと、それぞれの生活や生い立ちなどの話になった。彼曰く、裕福な家庭の人はガイドの養成学校に通い、一流の旅行会社に就職できるのだが、彼は養成学校には通えず、寺で和尚さんに日本語を教わったとのこと。給料のほとんどは両親や兄弟のために仕送りをし、生活は楽ではないそうなのだが、「ガンバリマス」と笑顔で繰り返していた。
 「コレハ日本語デ?」と彼。その指の先には、赤い花が咲いていた。電子辞書を駆使して「ポインセチア」と答えると、彼はそれを手帳に書き取る。そこには、日本語がびっしりと並んでいた。
 私が携帯していた電子辞書に多大な興味を示していた彼に、帰国後、使わなくなって放置されていた電子辞書を送った。そして、同封した手紙には、「勉強不足ですみません。あれは、ブーゲンビリアでした。」と記した。仕事や家事・勉強をサボりたくなると、いつもあの笑顔を思い出す。「ガンバリマス」。

講評  「彼」のさわやかで人懐こい笑顔が目に浮びます。その謙虚で前向きな生き方が、作者の人柄と響き合って、読者の心を温かくしてくれます。名前が書かれていれば、もっと「彼」に親しみが湧くように思いました。(豊泉 豪)

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「心に残る出会い」部門 佳作

四つ葉のクローバーと男の子

佐藤 愛子(岩手県花巻市)

 孫の夏芽はこの8月に1歳の誕生日を迎えました。
 思えば昨年の夏も今年の夏に負けず暑い夏でした。里帰り出産のため、娘は6月から帰省し、母娘でまったりとした日々を過ごしていました。
 出産予定日の近づいた8月のある日、日課の散歩に二人で出かけた時の事です。その日も暑かったのですが、夕方に買い物を兼ねてちょっと遠くのお店まで足をのばしました。買い物を終え、西日の射す帰り道。私は荷物を下げ、ちょっと疲れてきました。娘はと言うと、これまた大きなお腹で日傘をさし、辛そうに後ろを歩いておりました。家まで坂を上りまだだいぶ歩かねばなりません。大丈夫かな、無理させたかな、とかわいそうになってきました。
 その時、前方から歩いてきたランドセルの男の子が、私たちの前に手をにゅっと差し出しました。びっくりしていると、突然、「あげる」と言ったのです。見ると握った手の中に草みたいなものが数本あります。それは四つ葉のクローバーでした。「えっ、いいの」と言うと、にっこりうなずき、全部くれたのです。「ありがとう」と受け取ると、男の子はすたすた歩いて行ってしまいました。
 四つ葉のクローバーは幸せのクローバーです。娘と私は思いがけないプレゼントに疲れを忘れ、やさしい男の子の話をしながらまた歩きだしました。家に着いてからも、「三年生?」、「四年生?」、「日焼けしてた」、「茶色っぽいシャツを着て」などと、話題は尽きませんでした。そして、娘はその中の小さな一つを母子手帳に、そっと挟み込みました。
 それから数日して、孫の夏芽は元気にこの世に生まれてきました。日々成長し、その写真を整理している時、小さなクローバーは、今度はアルバムに引っ越しました。クローバーを目にすると、日焼けした男の子を思い出し、心がほっとします。
 アルバムを開くたび、母娘に幸せを運んでくれる四つ葉のクローバー、いえ、あの男の子に、「ありがとう」と言いたいです。

講評  名も知らぬ人との一瞬の出会いや、相手にとっては何でもない心遣いが、忘れられぬ思い出となることがあります。それは、受け手の心の持ち方ひとつなのだと、教えてくれる作品です。幸せの輪が、広がりますように。(澤口たまみ)

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「心に残る出会い」部門 佳作

スタートライン

水戸 ゆう子(埼玉県川口市)

 私は憮然とした表情で職業安定所のパイプ椅子で順番を待っていた。あれやこれやと思い悩むついでのように、言葉の訛りが気になって口元は自然のへの字になっていた。
 壁に掲げられた求人情報を眺めながら、新しい生活への不安ばかりが頭をもたげ、このまま帰っちゃおうかと迷っている時になって私の番が来た。
 担当は50歳くらいの、姿勢がよく、声に張りのある小柄な男性だった。
 開口一番、男性は
「あなたね、そんな暗い顔してちゃあ就職なんて見つからないよ」
などと冗談ともつかぬことを言う。
 隣の窓口にはいかにも感じの良さそうな職員が居るというのに。ついてない。
 希望の求人票を差し出すと、男性は困ったような表情を浮かべ、子育て層に人気のある業種だし、期待はできないなあ、などとつぶやいてみせた。
「…で、あなたの前のご職業は?」
 きた、この憂鬱な質問。
 私は春に起きた大災害ですべてを失ったも同然だと告げ、簡潔に今までの経歴を語った。じっと聞いていた男性はやおら求人先に電話をかけると、そこをどうにか、いやいや、どうかよろしく、などとしきりにコンタクトをとってくれているようだった。
 受話器を置きながら私を見つめると穏やかな笑顔を浮かべ、先方の企業はすでに定員は間に合っているそうだが、なんとか面接をしてくれるそうですよ、と言う。
「はあ、そうですか」などと、まだ気力のない返事をする私に男性は静かに告げた。
「私もね、あそこの出身なんですよ。あの街を出て何十年もたっちゃったけどね、墓がね、立ち入り禁止区域になっちまった」
 驚く私を見て、にっこり笑う男性はわずかに残る福島訛りで続けた。
「笑顔でね、面接いってみてください。大丈夫ですから」
 数日後、二駅向こうの面接場所へ行く途中、電車の窓に映った自分に向かって心の中でつぶやいた。
 …笑顔で、笑顔でね。

講評  福島の言葉のやさしい響きは、その土地の豊かな自然と、そこに住む人々の美しい心の表れです。それこそが、作者の悔しさと失意に向き合える唯一の言葉だったのかも知れません。題名に希望と決意が示されています。(豊泉 豪)

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「心に残る出会い」部門 めんこいテレビ賞

宝物

畠山 賢(岩手県盛岡市)

 もう30年も前だ。高校1年の春、「ロッキング・オン」という音楽誌に出会った。表紙のレッド・ツェッペリンの雄姿があまりにカッコよく、レコードをすぐに探し買い求めた。痺れた。以来ロックを聴きまくり、今も傾聴しているロックの巨星達に巡り合った。
 中でも、ブルース・スプリングスティーンの放つオーラは強烈だった。「明日なき暴走」という邦題とサウンド、メッセージに圧倒された。「ボーン・トゥ・ラン」=『走るために生まれてきた。この街にいると骨抜きになっちまうぜ』というフレーズは、15歳の浅はかな田舎者の心に突き刺さり、上京しなければならないという安直な確信を持った。
 確たる真っ当な目標が無いまま進んだ大学では、しばらく五月病状態だった。高校時代から一方的に好きだった女の子から時々届く手紙とロックだけが支えだった。そんな中、ブルースが「ボーン・イン・ザ・USAツアー」でついに来日した。代々木オリンピック記念プールで鳴り響いたイントロと巨大な星条旗をバックに叫ぶ姿に、大げさでなく腰が砕けた。確かに背中で電流が爆流した。今でもあの感動というか衝撃を上回るものは無い。
 アンコールのラストで場内の照明を全て灯し、1万数千人で合唱した「ハングリー・ハート」は、その後の自分の人生の座標軸の一つとなった。『誰もが満たされぬ心を抱えている。そして生きている』その通りだ。
 結婚し二児の父となり、40代半ばを過ぎ、中間管理職も長くなった。やりがいや達成感と同時に自分が描く理想と現実の狭間でもがき、本音と建前の中で消沈する場面は少なくない。そんな時、志学の頃に邂逅した音楽に助けられ、励まされるのである。悪くない。
 大事な補足がある。年に数回、肩の力を抜いて杯を傾けながら好きなことを言い合える仲間がいる。そこに建前や虚勢はない。どちらも10代に出会った得難い、素敵な宝物だ。

講評  ロックの洗礼を受けて突っ走った青春時代。ライブ会場の熱気と興奮が、色あせずストレートに伝わってきます。大人になり、少し苦い思いとともに振り返れるのも、ロックならではの魅力かもしれませんね。(村上幸子)

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