「心に残る出来事」部門 大賞 マ・シェリ賞

虹色の雑巾

徳山 容子(山梨県甲府市)

 新学期には雑巾を持参する。私は母から手渡された新しい雑巾を持って、意気揚々と学校へ向かったものだった。使い古したタオルで母が作ってくれた雑巾。それは密かな私の自慢だった。四角い渦巻きを描くように運針された糸が、赤から黄色へ、そして青へと色を変える。さまざまな色の糸がタオル地の上を行き交う。汚いところは拭きたくないと思ってしまうような、可愛い虹色の雑巾だった。
 母の針箱には、いつも古いタオルが一枚入っていた。服のボタンを付け直した赤い糸。靴下の穴をかがった青い糸。針に半端に残った糸で母は少しずつタオルの運針を進めた。
「お母さんも子供の頃、こうやって雑巾を作ってもらっていたのよ」
 母は、そう言っていた。
 豊かになった生活の中で、私はいったいどれくらいのものを自ら切り捨ててきただろう。忙しさを口実にインスタント食品に手を出す。節句や十五夜、豆まきなどの伝統行事を省略する。そして雑巾すら買ってしまったりする。
 母から受け取った温かいものの多くを私は両手の指の間から取りこぼし、半分も自分の子供達に与えていないのではないだろうか。苦い後悔が心をよぎる。
 先日、東京で働く娘が帰省した。
「ドーナツ作ってよ」
 彼女の唐突なリクエストに重い腰を上げる。やがて出来上がった不揃いで不恰好なドーナツを頬張りながら、娘は言った。
「子供の頃、これをみんなに配って歩いたね」
 広い敷地に二階建てのアパートが四軒建っていて、共有の庭で小さな子供達が兄弟のように遊んでいた。そんな環境で娘は育った。
「ドーナツ屋さんごっこ。楽しかったな」
 私が忘れかけていた他愛ない出来事を娘は憶えていた。虹色の雑巾は与えてやれなかったけれど、不格好なドーナツがその代わりになっていたとしたら。そう考えると、少しだけ救われる思いがした。

講評 手をかけて作ってもらった物の記憶は、それを受けとった子どもの心に、こんなにも鮮やかで誇らしく、愛された証しとなって残り続けるものなのだ。そう心から肯かされる作品です。ドーナツと雑巾という品物もいい。(澤口 たまみ)

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「心に残る出来事」部門 澤口たまみ賞

二十年もののゼンマイ

櫻井 正司(秋田県秋田市)

 山菜採りが好きな父親に連れられて、幼少の頃から、春と秋の休日はよく山に出かけた。小学校高学年の頃になると、友達とつるんで遊んでいるのが楽しくなってきたが、父親は既に優秀な戦力になっていた僕を手放さなかった。おそらく当時、最も山菜と茸に詳しい小学五年生の一人だったと思う。
 中学生になると部活に熱中したが、遠征等で山道を通り過ぎる時、マイクロバスの中で眼光鋭く「この沢は当たりだ」と一人呟いていた気味の悪い中学生だった。
 山菜採りは、早朝五時頃には出発し、車中で母の作ったお握りを食べ、六時には戦闘開始だ。途中で二回の休憩を挟み、昼前には家路に着く。好天の日は、外にガスコンロを出して、焼きそばとか煮込みうどんとかを母が用意して、姉や妹らと待っていてくれた。これが抜群に旨かった。傍らでは、祖母が石で積み上げた竃に大釜を載せ、大量のお湯を炊き上げていた。その中に、下処理しなければ食すことの出来ない山菜の王様と呼ばれるゼンマイを、綿を取り除き放り込む。一旦沸騰は収まるが、ゼンマイ特有の線香と青草の入り混じったような湯気とともに再び沸き立つ。辺りに春の本格的到来を告げる香りが広がる。
 父は五十九歳で亡くなった。癌だった。発病後の最初で最後の春に、僕は一人で山に向かい、旬の山菜を山からいただいてきた。病床の父に、シドケ、アイコ、たらの芽、コシアブラ、蕨、そしてゼンマイ等を見せると、目を細めて喜んだ。ゼンマイを例のごとく茹で始めると、「春なんだなあ」と漏らしたのを憶えている。あれから既に十七年経つ。その間に母も祖母も他界した。
 先日、今はもう誰も住んでいない実家で小屋を整理していると、干したゼンマイが出てきた。おそらく父と僕が採った二十年ものだ。晩春の誰もいない台所でお湯を沸かし戻した。懐かしいあの特有の香りとともに、いつかの皆がいた春爛漫の光景が確かに蘇った。

講評 野山で過ごした経験は、かけがえのない記憶となって、その人を最期まで支え続けるものと信じます。私もまた「この野原には虫がいる」と目を光らせる怪しい中学生でした。たっぷりの共感とともに個人賞を贈ります。(澤口 たまみ)

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「心に残る出来事」部門 詩歌の森賞

最初で最後

西畑 順子(大阪府大阪市)

 あの日、小学生だった私は初めて父の日のプレゼントを買うため、貯めていたお小遣いを片手に近所のスーパーへと向かった。
 お父さんが喜ぶ物って何かな、そうだあれがいい、毎朝髪に撫で付けてるヘアトニック。私は売り場へと走り、お目当てのヘアトニックを探して値段を確認する。私のお金で買える、よかった。それをレジへ持って行くと、「父の日のプレゼントね、お父さんにお手紙書いてあげたら喜ぶよ」と、店員がプレゼントに小さなメッセージシートを添えてくれた。
 手紙を書くつもりはなかったけどついでに書こっかな。そんな気軽な気持ちでプレゼントに短い手紙を添えた。
(いつも私たちのために働いてくれてありがとう。これからもお仕事がんばってね)
 そんな短い手紙だった。
 父が帰宅してから私はずっとそわそわしていた。手紙は恥ずかしいな。そう思いながらも、食事が終わり寛いでいる父へ思い切ってプレゼントと手紙を差し出した。
 父はまずプレゼントを開ける。ヘアトニックを見た父はとても喜んだ。次に私が書いた手紙に目を通す。父の目がその短い手紙の文字をゆっくりと追っていく。次の瞬間、「わあぁぁ」という父の叫び声が家の中に響いた。
 何が起こったんだろう? 父は両腕で顔を覆っている。俯いている。泣いている……。
 大人の男の人も大泣きするんだ。思いもよらない光景に私はただ驚くばかり。言葉をかけることも出来ず見守るだけ。
 父は顔を見せないように腕で顔を覆いながら「ごめんな、びっくりさせて。ほんまに嬉しい、ありがとう」と声を震わせていた。
 なんだか悪いことをしてしまったような気まずさに戸惑いながら「うん」と私は頷く。父の涙を見たのはあれが最初で最後。
 あの日から数年後に父は事故で他界した。

講評 叫ぶように泣くお父さんの気持ち、判ります! つらいことをたくさん抱えながら、がんばっていたのでしょう。きっかけは偶然で軽い気持ちだったとしても、〈ことば〉をいっしょに贈って、ほんとうによかったですね。(豊泉 豪)

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「心に残る出来事」部門 佳作

一粒の涙

鈴木 幸恵(岩手県盛岡市)

 先日、引っ越しをした。
 子供が二人になり家族が増えたことで手狭になったからだ。環境が変わらない方がいいと、同じ町内へ越すことにした。
 引っ越しが済んですぐ、三歳と一歳の娘を連れて前のアパートの掃除をしに行った。何も置かれていない、がらんとした部屋。不思議な感じがする。上から順にほこりを落としたり窓を拭いたりしながら、気がつくと、そこで過ごした日々のことに思いを巡らせていた。ここは私たちにとって夫婦として、家族としてのスタートを切った特別な場所。思い出が詰まっている。
「♪ありがとう、さようなら、○○(アパート名)、たくさんの思い出、ありがとう。」
私は、替え歌を口ずさんでいた。
 すると、窓掃除をしていた三歳の長女が私のところへ走ってきた。
「あのね、ママ…なんかね、その歌悲しい…。」
そう言うと、何とも言えない顔をして涙を一粒、ポロっと流した。それからしばらく私にしがみつき黙って泣いていた。
 引っ越し前に
「どうして違うところに住むの? ここがいいよ。ここが好きなのに。」
と何度も言っていた娘。
「お姉ちゃんになると大きくなって、おうちの方が小さくなってきちゃうんだ。みんなで広いところに住んだら楽しいと思うよ。」
と言ったが、それでも嫌だ、と言う。
 それからも娘の納得のいく説明ができぬまま、ここまできてしまった気がする。娘にとって引っ越しは大事件で、大切なものを奪われるような、不安で悲しい出来事だったに違いない。
 一粒の涙。私はドキッとした。そして、小さいながらに多くを敏感に感じ取っていることを私に教えてくれた。

講評 幼い子どもと接するとき、彼らがまだ大人のように達者には話せなくても、その心で、たくさんのことを感じているのだと、知っておく必要があるのでしょう。心の声を心の耳で聞く。そんな大人が増えるといいですね。(澤口 たまみ)

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「心に残る出来事」部門 佳作

吹雪の中のメッセージボード

伊吹 史郎(大阪府寝屋川市)

 被災地にとって三月といえばまだ真冬だ。美麗なリアス式海岸を大津波が襲った一年前も被災地は吹雪いていたことを思い出す。
 あの時、私は遠くから派遣された警察官として立ち塞がる瓦礫と格闘しながら前へ前へと進んだ。呼べど叫べど生存者はなく、ただ瓦礫の下で息絶えた無数のご遺体を担いでは搬送した。父を、母を、子供を亡くした遺族の声に何度、心の中で耳を塞いできただろう。
 震災発災の三月から夏、秋、冬と被災地への派遣は続き、ご遺体の捜索に明け暮れてやがて一年が経った時、瓦礫の群れは片付いたけれど、哀しみで進まない被災者の心の復興と、何度も被災地に派遣されているのに果たして自分は何かの役に立っているのかというもどかしさに苛立ち、心の葛藤が続いていた。そんな時に私はあの少年達の姿を見たのだ。
 震災発生の時と同じように吹雪いた海岸線を、仲間達と共に一日中捜索して帰途に着いた夕方だった。成果がなく、疲労感から部隊の誰もがバスの中で浅い眠りにあった時、運転手が前方を指して叫んだのだった。
「右っ、右手っ! 敬礼、敬礼願いますっ」と。
 小学校の土手の上。そこに五人の男の子がいた。そのうちの二人は白い大きな紙を持ち、他の三人は笑顔で両手を振っている。紙には、
「いつもいつも ご苦労さま ありがとう」
「遠くから 東北のために ありがとう」
と、幼い文字ながら大きく書かれていた。
 笑顔で手を振る少年達の前で運転手は減速し、私達もバスの中から敬礼を返した。そして何故だろう。私の頬に涙がポロポロ落ちた。
 未曾有の大震災に立ち向かおうとした最初の決意が折れかかり、いつしか惰性の日々を送るようになっていた。だがあの少年達のメッセージを見て目が覚めた。そうだ、俺達は東北の被災者のために遠くから来たんだ。一人でも多くのご遺体を家族の元に帰すために。
 吹雪の中のメッセージボード。少年達の笑顔と共にあの日のことを私は一生忘れない。

講評  遺体を捜索し、収容し、家族のもとに返すという、余りに苦しい仕事に従事した人たちがいることを、私は一生忘れないでいようと思います。その苦しみを一瞬で癒したのが、子どもたちの笑顔とことばであったことも。(豊泉 豪)

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「心に残る出来事」部門 佳作

父のこと、母のこと

烏 冬青(う とうせい)(福岡県北九州市)

 銀杏が落ちた。その音が秋に死んだ母を思い出させた。母は花好きだった。丹精込めて四季折々の花を咲かせた。私が小学校に上がると、いつも花を持たせた。私はそれが嫌で、そのたびに母を困らせた。教室は明るくなるし、きれいだし、みんなが喜ぶのも分かっていた。ただ恥ずかしかった。私の花好きにはいつもこの後悔がつきまとう。
 わが家は貧しい農家だった。食い物はあったが、現金はなかった。肥育の牛馬を手放すときにささやかな現金が入るぐらいだった。博労にひかれて売られていく牛馬を、目頭を押さえて見送った母の姿を思い出す。
 父は私が中学生になったら私を少年自衛隊に入れようとした。生活苦のうえ、子沢山。父には最良の選択だったのだろう。「勉強していい成績をとれば、父は考えを変えるかもしれない」自衛隊に行かないには、勉強するよりほかには方法がなかった。
 田んぼの稲穂が金色の波に変わる頃、勉強している3畳の間に父の怒声が聞こえた。「雨がくるぞ。出て来い! 田んぼに出て手伝え」父は私の勉強をよろこばなかった。大学合格さえもいい顔を見せなかった。私はそんな父をずっと恨んだ。母は、反対に「勉強したことは誰にも盗まれんし、今からは大学出るのが当たり前の時代が来るっとよ」と励ました。その言葉が唯一の救いだった。私は学問への憧れ断ちがたく、父にかくれて大学院を受験した。父はぽつりと言った。「そげんところへ行って、何になるんかのう」
 父が死んだ。23歳の私は葬儀を取り仕切り、相続の手続きに翻弄された。父の遺品を整理した。黒い革財布があった。中には、院受験の時の私の合格電報、「キミヒトリゴウカク」がきちんとたたんだまま、仕舞われていた。それを見た瞬間、私はすべてを了解した。父が逝き、父を好きになった。そうして、父が好きだった俳句を始めた。

講評  自らが高い壁となって、それを超えていくことを子どもに課す父の愛。そっと見守り、やさしく包み込む母の愛。八百字という字数の中で、ご両親の人柄と愛の形が見事に描かれていました。簡潔で味わい深い文章です。(豊泉 豪)

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「心に残る出来事」部門 めんこいテレビ賞

ふくら雀

関口 いずみ(岩手県盛岡市)

 二月、ふり積もった雪の中に鮮やかなウメモドキの赤い実が目をうばう。例年ならば、いろいろな小鳥たちに啄まれて、雪の降る前に無くなっていた。今年は小鳥たちが赤い実に目もくれず、窓際の庭木に取り付けた餌台に集まっている。
 歩行困難になった私のために、ベッドから眺められるよう、誰かさんが餌をやっていたらしい。食べ残しのご飯つぶや、冷蔵庫に入れたまま忘れていた、干乾びたラーメンなど、やっぱり穀物の方が好きなのだろうか。
 だんだん雀の数が増え、多い時は二十羽くらいで押し合っている。押し出されて、雪を被った隣のイチイの枝の下で、身をふくらませて丸くなり、順番でも待つような仕草が何とも微笑ましい。
 寒さのため全身の羽毛をふくらませるのを「福良雀」と呼び、縁起が良いとされている。江戸末期ころから、若い女性の髪型や帯の形が、ふくら雀に形状が似ていることから、その名がついたと言われている。
 丸く刈り込まれたイチイの木に、こんもり積った雪の上は、雀たちにとって格好のくつろぎの場である。食後の水代わりに雪を啄み嘴についた餌をぬぐい、身づくろいをして、飛び立って行くのだった。
 いくつかのグループがあり、先のグループが飛び去ると、別の一羽がやってくる。直接餌台へ行かずに近くの梅の木や、電線に止まり偵察でもしているように、徐々に近づいて来て啄む。そうして仲間の雀も先を争うように集まり、賑やかな食事風景を見せてくれる。
 誰かさんは、餌をやっていることを内緒にし、私も眺めて癒され、楽しんでいることを敢えて口にはしない。自分で立って歩くことが恩返しだと思い、リハビリに励んでいる。

講評  キンと冷えた、賑やかな2月の冬の庭の情景が浮かんできました。それと対比するように、作者のためにえさ台をこしらえた「誰かさん」の優しさが、温かさとして伝わってきました。温度を感じる作品でした。(マ・シェリ編集長 木戸場 美代子)

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